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昔話いろいろ [2021/10/31 14:17] makotoa67昔話いろいろ [2023/09/07 00:25] (現在) makotoa67
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 思い出したときに、色々と、昔のお話しを書き留めてみようと、このページを作成。まあ、書けない話も多いので、書ける範囲で。 思い出したときに、色々と、昔のお話しを書き留めてみようと、このページを作成。まあ、書けない話も多いので、書ける範囲で。
  
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-大学時代のお話し。 
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-大学時代の専門は、情報工学で、所属していた研究室は、コンパイラとかOSなどのシステムソフトウェアを扱っていた。私は、OS側のグループだった。 
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-インターネットの先駆け的な環境、JUNETで、ネットワークが当たり前的な環境、今にしておもえば、ありがたい環境だったんだなと思う。 
  
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-基本的には、ソフトウェア開発を業務としていたが、学生時代の環境を考えると、社内のシステムやネットワークに色々と不満に思うことがあって、色々と試みていた。 +一社のカメラメーカに在籍していたときに、開発に携わったカメラ。
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-例えば、ドキュメンテーション環境。 +
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-最初の会社で、最初のがっつりした仕事は、この後ろでも書いている、フィルムカメラ時代のカメラのソフトウェア開発。多分、まだそういう時代だったのだと思うが、そのドキュメント作成の環境がなかなか貧弱だった。その中で、ネットもつながらない時代、自宅のパソコン通信(NIFTY-Serveなど)で、自腹で、色々と環境をダウンロードして、会社の設計文書作成環境を構築していた。例えば、LaTeXとTgifで、仕様書などの作成環境を。また、X11/Xt/Xmで、ソースコード(その頃は、HITATI H8マイコンのアセンブリ)を読んでフローチャートを自動生成するツールを作ったり。 +
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-例えば、Web技術。 +
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-1994年に、神戸の事業所に戻って来た後だったと思う。 +
-httpとかWWWなどの技術が出て来て、とりあえず、サーバを立てて、ブラウザから見て、 +
-画像とテキストが混ざったコンテンツが見れることに、おお、と思った記憶。 +
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-その頃は、HTMLで直に書いていた。 +
-まだ、会社がIP接続されておらず、社内で人で試していたように思う。 +
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-そうそう、まだ、[[https://ja.wikipedia.org/wiki/Unix_to_Unix_Copy_Protocol#:~:text=Unix%20to%20Unix%20Copy%20Protocol%EF%BC%88%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%20%E3%83%88%E3%82%A5%20%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%20%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC%20%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AB,%E8%A1%8C%E3%81%86%E9%80%9A%E4%BF%A1%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%A8%AE%E3%80%82&text=UUCP%E5%85%A8%E7%9B%9B%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%A6,%E3%81%AB%E9%85%8D%E4%BF%A1%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82 |UUCP]]なんて形でつながっていた。クラスBのIPアドレスを2つも持っていたにも関わらず、IP接続はされておらず。。 +
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-例えば、電子メール。 +
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-内に、CAD用に、OSがUNiXなWorkstationがばらまかれていたので、それをサーバにすれば、電子メールが使えるようになる、 +
-ということで、社内の協力者を見つけては、SMTPとPOPのサーバプログラムをセットアップして、フリーのメーラー +
-を勧めて、ほら、使えますよ、と活動していた。 +
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-sendmailをインストールして、その設定ファイルsendmail.cfを設定して、メールがそのサーバに届くように、DNSも立てて、MXレコードを設定して。。。 +
-これも、1994、1995年あたりお話し。 +
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-カメラメーカに在籍していたときに、開発に携わったカメラ。+
  
   * α707si   * α707si
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 久々にカメラ部門に戻って来て、かつ、デジタルカメラの時代になって、最初の本格的自社開発のカメラ。最初の企画は、80万画素だったが、画素数競争が厳しい時代で、80万画素での商品化を断念し、150万画素に企画変更された。 久々にカメラ部門に戻って来て、かつ、デジタルカメラの時代になって、最初の本格的自社開発のカメラ。最初の企画は、80万画素だったが、画素数競争が厳しい時代で、80万画素での商品化を断念し、150万画素に企画変更された。
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 +最初は、RTOSにpSOSを使って、ソフトウェア環境も自前で全部やっていたが、途中から、FlashPoint Technology Inc.(FTIと略す)との共同開発になった。RTOSはVxWorksに切り替わった。[[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980414/flashpnt.htm | Digita]]というデジタルカメラ用のOS的なものを搭載して、Camera Control Shellというカメラ制御部分はミノルタが開発。1998年から1999年にかけて、サンノゼのFTIのオフィスに出張して、あまり喋れない英語で格闘していた、そんな記憶が蘇って来た。。
  
   * [[https://ascii.jp/elem/000/000/306/306671/ | MINOLTA 3D 1500]]   * [[https://ascii.jp/elem/000/000/306/306671/ | MINOLTA 3D 1500]]
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 また、その後、Arm系CPUをコアに、新しいプラットフォームを開発し、それをベースに、何世代かに渡ってASICを開発していった。 また、その後、Arm系CPUをコアに、新しいプラットフォームを開発し、それをベースに、何世代かに渡ってASICを開発していった。
 その際、会社としては、ハードウェアを開発して顧客に納めることはもちろんだが、それだけではなく、ソフトウェアのフレームワークも顧客と共同開発も行った。使用したOSはT-Kernel系のマルチコア対応。マルチコアを活かせる形で、カスタムの画像処理ブロック用のドライバやミドルウェアも開発した。 その際、会社としては、ハードウェアを開発して顧客に納めることはもちろんだが、それだけではなく、ソフトウェアのフレームワークも顧客と共同開発も行った。使用したOSはT-Kernel系のマルチコア対応。マルチコアを活かせる形で、カスタムの画像処理ブロック用のドライバやミドルウェアも開発した。
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 +大学時代のお話し。
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 +大学時代の専門は、情報工学で、所属していた研究室は、コンパイラとかOSなどのシステムソフトウェアを扱っていた。私は、OS側のグループだった。
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 +インターネットの先駆け的な環境、JUNETで、ネットワークが当たり前的な環境、今にしておもえば、ありがたい環境だったんだなと思う。
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 +私は、パソコン触りだしたのも大学生になってからだったが、まわりの同期のやつには、意識の高いやつが多く、私自身は、あまり前向きな学生ではなかったと思う。
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 +基本的には、ソフトウェア開発を業務としていたが、学生時代の環境を考えると、社内のシステムやネットワークに色々と不満に思うことがあって、色々と試みていた。
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 +例えば、ドキュメンテーション環境。
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 +最初の会社で、最初のがっつりした仕事は、上でも書いている、フィルムカメラ時代のカメラのソフトウェア開発。多分、まだそういう時代だったのだと思うが、そのドキュメント作成の環境がなかなか貧弱だった。その中で、ネットもつながらない時代、自宅のパソコン通信(NIFTY-Serveなど)で、自腹で、色々と環境をダウンロードして、会社の設計文書作成環境を構築していた。例えば、LaTeXとTgifで、仕様書などの作成環境を。また、X11/Xt/Xmで、ソースコード(その頃は、HITATI H8マイコンのアセンブリ)を読んでフローチャートを自動生成するツールを作ったり。
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 +例えば、Web技術。
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 +1994年に、神戸の事業所に戻って来た後だったと思う。
 +httpとかWWWなどの技術が出て来て、とりあえず、確か、HPにUNIXマシンにサーバを立てて、ネットワーク越しの他のワークステーション上の別のブラウザから見て、画像とテキストが混ざったコンテンツが見れることに、おお、と思った記憶。
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 +その頃は、HTMLで直に書いていた。
 +まだ、会社がIP接続されておらず、社内で一人で試していたように思う。
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 +そうそう、まだ、[[https://ja.wikipedia.org/wiki/Unix_to_Unix_Copy_Protocol#:~:text=Unix%20to%20Unix%20Copy%20Protocol%EF%BC%88%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%20%E3%83%88%E3%82%A5%20%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%20%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC%20%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AB,%E8%A1%8C%E3%81%86%E9%80%9A%E4%BF%A1%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%A8%AE%E3%80%82&text=UUCP%E5%85%A8%E7%9B%9B%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%A6,%E3%81%AB%E9%85%8D%E4%BF%A1%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82 |UUCP]]なんて形でつながっていた。クラスBのIPアドレスを2つも持っていたにも関わらず、IP接続はされておらず。。
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 +例えば、電子メール。
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 +社内に、CAD用に、OSがUNiXなWorkstationがばらまかれていたので、それをサーバにすれば、電子メールが使えるようになる、
 +ということで、社内の協力者を見つけては、SMTPとPOPのサーバプログラムをセットアップして、フリーのメーラー
 +を勧めて、ほら、使えますよ、と活動していた。
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 +sendmailをインストールして、その設定ファイルsendmail.cfを設定して、メールがそのサーバに届くように、DNSも立てて、MXレコードを設定して。。。
 +これも、1994、1995年あたりのお話し。
  
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 ソフトウェアエンジニアは、バージョン管理システムを使っていくのが当たり前の時代になっても、RTLエンジニアは、若干そのあたりの意識がまだ薄かったが、やはり、必要性はあったので、そちらのエンジニアにも導入するなど。 ソフトウェアエンジニアは、バージョン管理システムを使っていくのが当たり前の時代になっても、RTLエンジニアは、若干そのあたりの意識がまだ薄かったが、やはり、必要性はあったので、そちらのエンジニアにも導入するなど。
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 ~~DISCUSSION | 自由記入欄 ~~ ~~DISCUSSION | 自由記入欄 ~~
  
  
昔話いろいろ.1635657439.txt.gz · 最終更新: 2021/10/31 14:17 by makotoa67