ユーザ用ツール

サイト用ツール


昔話いろいろ

昔話いろいろ

思い出したときに、色々と、昔のお話しを書き留めてみようと、このページを作成。まあ、書けない話も多いので、書ける範囲で。


一社目のカメラメーカに在籍していたときに、開発に携わったカメラ。

  • α707si

入社して、最初に開発に携わったもの。α7xiを学習しつつ、編集設計で開発。私は、メカのフィルム給送制御あたりと、AEの露出制御演算あたりを担当。

  • α507si

α707siをベースに、開発言語をC言語化。ただし、最初のとっかかりまでしか携わらず、転勤してしまったので、先輩達にしわ寄せが行ったようで、申し訳なかった。

久々にカメラ部門に戻って来て、かつ、デジタルカメラの時代になって、最初の本格的自社開発のカメラ。最初の企画は、80万画素だったが、画素数競争が厳しい時代で、80万画素での商品化を断念し、150万画素に企画変更された。

最初は、RTOSにpSOSを使って、ソフトウェア環境も自前で全部やっていたが、途中から、FlashPoint Technology Inc.(FTIと略す)との共同開発になった。RTOSはVxWorksに切り替わった。 Digitaというデジタルカメラ用のOS的なものを搭載して、Camera Control Shellというカメラ制御部分はミノルタが開発。1998年から1999年にかけて、サンノゼのFTIのオフィスに出張して、あまり喋れない英語で格闘していた、そんな記憶が蘇って来た。。

DiMAGE EX 1500をベースに、特別なフラッシュユニットを、レンズ/センサ部と本体との間に挟み込んで実現したもの。 3Dと言っても、カメラ側では、1枚は通常のストロボ撮影、もう1枚は、特殊なフィルタを投影したストロボ撮影、を実施し、3D合成などはPC側ですべて実施する形態。

  • Primaxで1機種(機種名忘れた)
  • ScanHexで1機種(機種名忘れた)

台湾メーカーで、OEM製品の開発サポート。サポートと言っても、現地のメンバーと一緒に開発作業をどっぷり実施していた。

デジタルカメラの開発に出遅れて、DiMAGE 7/DiMAGE 5/DiMAGE S304の3機種同時開発。私は、3機種横断的に、撮像部を担当。

7iになんとか目途を付けたタイミングで、二社目に転職。


二社目では、一社目で使っていたデジタルカメラ用メインコントローラチップのシリーズの新バージョンのソフトウェア環境を整えるところから仕事がはじまったか。

デジタルカメラ向けの汎用チップとして開発/販売していたチップは、書いてもいいかな。

ここまでの汎用チップでは、MIPS系のCPUが搭載されていた。この頃は、汎用チップということもあり、それを使ったらデジタルカメラがすぐ開発できる、ぐらいの勢いで、SDK開発をしていた。画像処理系フレームワークだけでなくU/I系も。

その次の時期は、DSC-4Lをベースに、顧客向けにカスタムチップを開発していた期間。

また、その後、Arm系CPUをコアに、新しいプラットフォームを開発し、それをベースに、何世代かに渡ってASICを開発していった。 その際、会社としては、ハードウェアを開発して顧客に納めることはもちろんだが、それだけではなく、ソフトウェアのフレームワークも顧客と共同開発も行った。使用したOSはT-Kernel系のマルチコア対応。マルチコアを活かせる形で、カスタムの画像処理ブロック用のドライバやミドルウェアも開発した。


大学時代のお話し。

大学時代の専門は、情報工学で、所属していた研究室は、コンパイラとかOSなどのシステムソフトウェアを扱っていた。私は、OS側のグループだった。

インターネットの先駆け的な環境、JUNETで、ネットワークが当たり前的な環境、今にしておもえば、ありがたい環境だったんだなと思う。

私は、パソコン触りだしたのも大学生になってからだったが、まわりの同期のやつには、意識の高いやつが多く、私自身は、あまり前向きな学生ではなかったと思う。


基本的には、ソフトウェア開発を業務としていたが、学生時代の環境を考えると、社内のシステムやネットワークに色々と不満に思うことがあって、色々と試みていた。

例えば、ドキュメンテーション環境。

最初の会社で、最初のがっつりした仕事は、上でも書いている、フィルムカメラ時代のカメラのソフトウェア開発。多分、まだそういう時代だったのだと思うが、そのドキュメント作成の環境がなかなか貧弱だった。その中で、ネットもつながらない時代、自宅のパソコン通信(NIFTY-Serveなど)で、自腹で、色々と環境をダウンロードして、会社の設計文書作成環境を構築していた。例えば、LaTeXとTgifで、仕様書などの作成環境を。また、X11/Xt/Xmで、ソースコード(その頃は、HITATI H8マイコンのアセンブリ)を読んでフローチャートを自動生成するツールを作ったり。

例えば、Web技術。

1994年に、神戸の事業所に戻って来た後だったと思う。 httpとかWWWなどの技術が出て来て、とりあえず、確か、HPにUNIXマシンにサーバを立てて、ネットワーク越しの他のワークステーション上の別のブラウザから見て、画像とテキストが混ざったコンテンツが見れることに、おお、と思った記憶。

その頃は、HTMLで直に書いていた。 まだ、会社がIP接続されておらず、社内で一人で試していたように思う。

そうそう、まだ、UUCPなんて形でつながっていた。クラスBのIPアドレスを2つも持っていたにも関わらず、IP接続はされておらず。。

例えば、電子メール。

社内に、CAD用に、OSがUNiXなWorkstationがばらまかれていたので、それをサーバにすれば、電子メールが使えるようになる、 ということで、社内の協力者を見つけては、SMTPとPOPのサーバプログラムをセットアップして、フリーのメーラー を勧めて、ほら、使えますよ、と活動していた。

sendmailをインストールして、その設定ファイルsendmail.cfを設定して、メールがそのサーバに届くように、DNSも立てて、MXレコードを設定して。。。 これも、1994、1995年あたりのお話し。


例えば、バージョン管理システム。

RCSからはじまって、CVS、そして、Subversion、など。ああ、バージョン管理システムを使いたがらない上司がいて、いらついていたことを思い出した。あと、保守的なエンジニアに、CVSからSubversionへの移行を一所懸命進めたりしていたことを思い出した。サーバ側も色々とセットアップして、クライアント側も、最初はコマンドラインで、そのうち、使いやすいGUIのツールが出て来たら、それを導入して使い方を指導して、などなど。

ソフトウェアエンジニアは、バージョン管理システムを使っていくのが当たり前の時代になっても、RTLエンジニアは、若干そのあたりの意識がまだ薄かったが、やはり、必要性はあったので、そちらのエンジニアにも導入するなど。


自由記入欄

コメントを入力. Wiki文法が有効です:
画像の文字が読めなければ、文字を読んだ.wavファイルをダウンロードして下さい。
 
昔話いろいろ.txt · 最終更新: 2023/09/07 00:25 by makotoa67